旧真田山陸軍墓地の史跡・文化財指定を望む

……旧真田山陸軍墓地は、明治以来敗戦に至るまでの日本の軍隊と戦争及びそれに関わることを余儀なくされた内外国民の歴史を今に伝え続ける、現物の生きた記録の宝庫です。

文化財とは
 文化財とは、文化財保護法で「わが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものである」と規定されています。また、同法では、文化財となるべきものの第4項に「貝づか、古墳、都城跡、城跡、旧宅その他の遺跡で我が国にとつて歴史上又は学術上価値の高いもの」が列挙され、そのうちで保護が必要な遺跡について国が史跡として指定するとされています。
 それでは、旧真田山陸軍墓地は、この規定にあてはまる存在なのでしょうか。この墓地は「我が国の歴史、文化等」の理解にとっていかに不可欠な存在なのでしょうか。歴史上又は学術上いかに価値がある遺跡なのでしょうか。まずは、ここから検討してみることにしましょう。

《注目点1》 陸軍草創期につくられた日本最古の兵隊埋葬地
《注目点2》 1877年(明治10)西南戦争での官軍死没者の墓碑
《注目点3》 脚気による死者、疫病感染等による病死者の墓碑
《注目点4》 事故死や自殺など兵営生活との関わりで死没した者の墓碑
《注目点5》 1894〜95年(明治27〜28)の日清戦争とそのあとに続いた台湾派兵に関係した「軍役夫」などの墓碑
《注目点6》 日本と戦った外国人俘虜の墓碑
《注目点7》 日本社会の伝統的身分意識の反映と死に方に価値の高下を与える傾向
《注目点8》 敗戦前戦場の悲惨な姿が納骨堂の骨壷安置状況から見えてくること
《まとめ》






《注目点1》 陸軍草創期につくられた日本最古の兵隊埋葬地

 旧真田山陸軍墓地は、1871年(明治4)日本で最初に設置された兵隊埋葬地です。そこには、文献ではその記録が残されていない入営兵や、文献では知られていた1871年の辛未徴兵、そして旧藩からの兵員差出など徴兵制度実施以前の陸軍草創期における兵隊集めの多様な姿などが、立ち並ぶ墓碑という形で実にリアルに伝えられているのです。
 政府は大阪で陸軍を創設するため、藩が存在していた時代、藩が廃止された後の時代に応じ、様々な形で多数の兵卒を大阪に集めました。兵の出身地や社会的身分は多様であり、年齢構成にも相当の開きがありました。また、墓碑には「庚午」(明治3年)、「辛未」(明治4年)、「壬申」(明治5年)といった干支による年次表記で入隊や死没年が示され、「応募」とか「応徴」といった入営形態が示されています。
 旧真田山陸軍墓地は、明治初年の草創期陸軍が持たざるを得なかった多様で寄せ集め的な姿、そしてそれが、1874年(明治7)5月以降編成されていく徴兵制に基づく画一的な兵に取り替えられていく姿を、その墓碑を通して実感できる希有な遺跡となっているのです。また、その墓碑には、ひとり、ひとりの兵卒らの生活記録が示されていることも、兵卒や下士となった人びとの生きた記録としてたいへん貴重です。






《注目点2》 1877年(明治10)西南戦争での官軍死没者の墓碑

 西南戦争は、政府軍と薩摩藩士族を中心とする人びとが九州各地で衝突し、激戦を繰り返した維新期最大の内戦でした。旧真田山陸軍墓地は、西南戦争で戦場となった九州各地に今も残る多数の官軍墓地と比較しても、それらの中で最大規模を有するものとなっています。死没者が所属していた鎮台も墓碑を見ていけば、全国すべてのそれが記載されています。なかには、徴兵とは言えない新撰旅団や警視庁巡査の墓もあります。また、明治初期における北海道開拓でよく知られた屯田兵の墓も2基あります。戦争での怪我や病気だけでなく、凱旋途上で流行し始めたコレラに侵されて死亡した兵卒たちの墓碑も多数並んでいます。
 戦場から遠く離れた大阪真田山の地にこのように多数の官軍死没者の墓碑が並んでいることは、西南戦争が国家の総力を挙げた大事であったことを何よりもよく示しています。しかも、それら墓碑には「鹿児島県賊徒征討之役」で死没したことが明記され、政府にとってこの戦争が反乱を鎮圧する内戦であったことを今に伝えています。旧真田山陸軍墓地は戦場であった九州から遠く離れていたが故に、かえって西南戦争の規模や政府による位置付け方を知る上で欠かすことのできない歴史遺跡となっているのです。






《注目点3》 脚気による死者、疫病感染等による病死者の墓碑

 旧真田山陸軍墓地には、脚気による死や、コレラ等疫病に感染したことによって亡くなったことを示す墓碑が多数存在しています。こうした病気が陸軍創設以来大きな問題となっていたことは文献上知られていましたが、旧真田山陸軍墓地では実際の死没者墓碑を通してリアルにそれを知ることができます。
 また脚気病の克服に麦飯の混食を1884年(明治17)以来、陸軍軍医界中枢の執拗な反対を押し切って断固として実施し重要な業績を上げた軍医監堀内利国の墓碑があることも重要です。
 1894~95年(明治27~28)の日清戦争での死没者の増大が、堀内利国の主張と大阪鎮台等での経験を生かせなかった結果であることを、立ち並ぶ日清戦争に関わる死没者墓碑の多さによって読み取ることも可能です。






《注目点4》 事故死や自殺など兵営生活との関わりで死没した者の墓碑

 明治期、陸軍は日本が西欧化する中心組織の一つでもあり、文明の移植に関しては最先端の実行組織でした。多くの兵卒たちが、たとえば洋服である軍服を着て、靴を履くこと、時間を守ること、軍隊内の階級秩序を守ることといった入営前の日常とは大きく異なる生活習慣の強制に戸惑ったのです。もちろん、それに慣れた者も多く、彼らは、退役後郷里で西欧文明の鼓吹者の役割も果たしていきますが、人によってはひどいストレスを抱え込み、それが引き金となって死を招くことも少なくなかったのです。休日に市中で巡査と衝突事件を起こし、それが基で死を招くものもありました。陸軍墓地にはこうした死を迎えた人の墓碑も少なくないのです。陸軍墓地に埋葬された人は、後になって問われる靖国神社に合祀されるような戦死者ばかりではなかったのです。
 陸軍墓地には、このように平時における死没者の墓も多いこと、そのような死に方をした者も多かったことを知っておくべきです。それは、当時の陸軍墓地を知り、軍隊を理解する上で不可欠の知識となるものです。とくに、入営後6ヶ月間の訓練期間を設定され、「生兵」とされた初心者の墓碑が多いことは、そこに陸軍の大きな問題点が隠されているところとして、注目しておくべきです。






《注目点5》 1894〜95年(明治27〜28)の日清戦争とそのあとに続いた台湾派兵に関係した「軍役夫」などの墓碑

 日清戦争と台湾領有のための軍隊派遣が多数の民間人軍役夫等によって支えられていたことは、従来あまり知られていなかったことですが、この戦争の本当の姿を知る上で大変大事な事実です。そこでは、兵站を重視していなかった日本陸軍の問題点も見えてきます。
 日清戦争に関わる軍役夫は数万人から10数万人にのぼると指摘されています。これら軍役夫等の個人墓碑が一区画を作って多数立ち並んでいる光景は旧真田山陸軍墓地だけで見ることができるものです。
 さらに、指摘しておくならば、日本の植民地台湾の領有も、それを完遂するためには軍の動員が避けられなかったこと、また、それは現地住民の激しい抵抗を受けたことも知ることができます。大阪に拠点を置いた第四師団は、講和条約締結後大陸に上陸したため清国との正規の戦争に参加できず、代わりに、そのあとに展開した占領地の警備や台湾領有戦争に動員されたことと深く関係していたとみるべきでしょう。






《注目点6》 日本と戦った外国人俘虜の墓碑

 日清戦争に関しては6人の清国軍人墓碑、日独戦争に関しては2人のドイツ兵墓碑があります。いずれもセメントで墓碑正面に記載されていた「俘虜」の文字を塗りつぶしています。文明国への道を歩もうとする日本が外国兵の俘虜をどう処遇したか考える際の手がかりとなるものとして注目すべきです。ちなみに、昭和に入って戦われた日中戦争や太平洋戦争において日本軍が俘虜に対して行なった非人道的な対応を考えるとき、明治~大正期の戦争で日本がとった上記のような対応を知っておくことは、大事な認識につながる可能性を多分に有しているというべきでしょう。






《注目点7》 日本社会の伝統的身分意識の反映と死に方に価値の高下を与える傾向

 陸軍墓地においては、第一に、軍内部の士官・下士・兵卒といった階級の違いによって墓碑の位置・大小・形状に早くから厳然とした区別がありました。墓地に来る人は、目に見えるその違いの存在に、敗戦に至るまでの伝統的な日本の身分差意識の強さに驚くことでしょう。士官以上の立派な墓碑とその功績を記した銘文の存在に比べ、下士以下の平準化された形(ただし、大小の差はつけられている)とマニュアル化された銘文記載の落差は驚くべきです。
 しかし、第二に、その記載も時期を追って変化し、その死を軍への貢献度合いによって評価しようという傾向の強まりが見られるようになってきます。1894~95年(明治27~28)の日清戦争に関しては、死没者の名前をきれいに彫り込んだ個人墓碑が整然と並べられ、初めて死をもってするところの戦争への貢献とそれを顕彰することが表現されました。
 1904~05年(明治37~38)の日露戦争では戦没者をまとめて拝礼する合葬墓が階級別に4基作られました。外地での戦争で死没する軍人・軍属などの数が急速に増大したとして個人墓碑を立ち並べず、その代わりとしたのです。ただし、碑面には名前さえも刻まれませんでした。名前をすべて記載すれば異様な姿になるというのが理由として挙げられています。
 こうして死者の名前は表に出ず、墓碑には軍功を上げた多数の軍人がいたという抽象的な観念だけが残されていくのです。死は個人のものというよりは、軍への功績に包摂される抽象的存在に変化していったと言うべきでしょう。
 この後、合葬墓の前の広場は師団関係者の戦没者慰霊の空間となっていきます。それは墓地ではありましたが、陸軍墓地が靖国神社的な役割に近づいていく流れの加速化でもあったと言っていいでしょう。






《注目点8》 敗戦前戦場の悲惨な姿が納骨堂の骨壷安置状況から見えてくること

 納骨堂は大阪府仏教会が寄付を募り1943年(昭和18)8月建造し、陸軍に献納した施設でした。納骨堂には厳しい戦場でなくなった軍人・軍属等の遺骨を分け置き、戦争遂行の線で国民意識を統合し、役立てるものとして建造されたのです。
 1943年には戦局が厳しさを増すとともに還送される遺骨も増えてきましたが、さらに戦局が厳しくなった1944年(昭和19)以後は、逆に骨壷や骨箱の安置数が増えず、しかも遺骨のないそれが多数を占めてきていることが悉皆調査の結果判明しています。厳しさを増す戦局が、国や軍の責任で動員した軍人・軍属の死に対してさえ十分な対処を困難にしていたことをうかがわせているのです。
 真田山陸軍墓地の納骨堂(建造時には忠霊堂)には8249人分の骨壷や骨箱が納められていて1937年(昭和12)の日中戦争開始から1945年(昭和20)のアジア太平洋戦争集結までの戦争での戦没者の多さを実感させてくれますが、その多さに比例して遺骨が戻っていないという実際もあったのです。納骨堂では還送されるはずだった遺骨がかえって少ないという点で、かえって戦争の悲惨さを示すことになっているのです。






《まとめ》

 以上、8点にわたって、旧真田山陸軍墓地に関する注目点を検討してきました。この検討を通して、旧真田山陸軍墓地は、明治以来敗戦に至るまでの日本の軍隊と戦争及びそれに関わることを余儀なくされた内外国民の歴史を今に伝え続ける、現物の生きた記録の宝庫であることが確認できたのではないでしょうか。
 軍隊や戦争については、たとえば、軍を指揮する人とその指揮に従って行動させられた人、あるいは、日本軍に対峙させられた外国や関係地域の人びとと日本人とでは、同じものを見ても異なった思いや感想を持つでしょう。しかし、その違いを知らなければ、共通の認識へ到達することは不可能なままで終わるのではないでしょうか。
 旧真田山陸軍墓地をはじめとする全国の旧陸軍墓地は、見る人の立場はさまざまに相違し、あるいは対立していても、その相違や対立を超えて軍隊そして戦争の意味を理解する共通の認識土台として重視され、生かされていく世界的な、かつ国民的な記憶メディアとなるものであると言っていいでしょう。平和と人権を考える上でこの墓地の存在は欠かすことができません。旧真田山陸軍墓地は、全国の陸軍墓地の典型として文化財=史跡として国は指定し、その保存を図らなければならない理由なのです。
 旧真田山陸軍墓地は、戦後多くの旧陸軍墓地がその姿を転変させ、なかには消滅したものもある中で、奇跡的に戦前・戦中の姿をそのまま今に残し、しかも、わが国最古の歴史を有して今日に伝わっています。しかし、墓碑の多くは材質的にもろい和泉砂岩で造られており、1871年(明治4)の創設以来、風雪に耐えてきましたが、破損・劣化・剥落・倒壊するものが後を絶ちません。
 幸いなことに、現在は近畿財務局の主宰の基に墓碑の保存強化工事が実施され、納骨堂の耐震強化工事も着手されるようになりました。願わくは、これをもう一歩進めて、現在落下している墓碑の破片を調査の上、元の墓碑に復元させることを実施してほしいものです。旧真田山陸軍墓地は「史跡」「文化財」として永く保存され、活用されるべきものであるならば、これらの工事がそのために生かされることを望むものでもあります。また、この工事をきっかけとして、それをさらに生かすための研究・啓発機能および見学者等の休憩施設も持った研究啓発センターの設置と専門的人員の配置は不可欠でしょう。